大器の器・トップ > 陶芸家 奥田大器の紹介
現代社会に生きる皆様に“潤い”を届ける。
これが奥田大器が『大器の器』で行いたい事です。
今、世の中は非常に殺伐としていると思います。ひょっとしたら有史以来一番人の“心”が乾燥している時代かもしれません。
モノは豊かになりました。しかし心の中は違うと思います。
大器の器はそんな現代社会を生きる皆様の心に潤いを届けたいと考えています。
何故、僕がそんな事をするのか?
それは信楽焼の窯元にどんな因果があったかは知りませんが、そこに生まれたからです。
信楽焼、焼物、陶器は本来そういう効果を持っていた筈です。植木鉢にしてもプラスチックの方が断然取り扱いは便利です。なのに人は何故重くて、割れて、均一しない陶器を使うのでしょう。それは言葉では上手く表現できないが、心に“良い”と響くからではないのでしょうか。それが心の“潤い”だと大器の器は考えます。
この潤いを陶器商品として皆様にお届けしたいと思っています。
大器の器は“潤い”を土(陶器)、水、音、この三要素にがある物だと考えます。
そしてその要素を焼物として表現できる、感じて頂ける作品
- 水琴窟(陶琴)
- 水鉢(つくばい)
- それら三要素のどれかを踏まえたオリジナル新商品
以上の物を皆様にお伝えし、届けたいと思います。
信楽で窯を創窯して以来、大器の器を運営する壷八窯は一貫して庭園陶器(傘立てや鉢、プランター)を製作してきました。色々な物を作る時代もありましたが、基本は庭園陶器を作り続けて来ました。大器の器で販売する水琴窟(陶琴)と水鉢は、その今までのノウハウを注ぎ込んだ作品です。
必ずや使用して頂いた皆様の生活や心を潤いに満ちたものにすると信じています。
大器の器の唯一にして最大の目的は、この信楽の地から焼物の力で皆様の心に“潤い”を届ける事です。
お客様皆様が考える潤いとは何か?時代や状況によって“心の潤い”の定義は変化していくと思います。しかしそれを焼物を通じて常に考え、焼物の形に表現していきたいと思います。
信楽で生まれて信楽で育ち少し外へ出て信楽へ帰って来ました。
結局ここでしか生きれない。この場所でしか存在できない。そんな人間が陶器を作っています。
純朴陶芸家奥田大器 八山窯三代目 ここで朽ちて死んでいく。死んでいくまでに何を世間様にしていくのか。その模索の人生だと思っています。
昭和56年に信楽焼の窯元壷八の長男として生を受けました。壷八では初めての男子誕生であったので(二代目八山は婿養子)それはそれは何一つ不自由なく育てられました。当時からバブル景気に沸く平成の最初の頃まで壷八は元より信楽焼の業界全体が物凄い勢いで売り上げが上がっていく時代です。まさに産地全体が怖い物しらず。こんな小さい町が世界陶芸祭(冠に世界とつけています。この事からも当時の勢いが伺えます)と銘打って博覧会を行っていたのです。
僕もそれが当たり前の世界だと思い幼少期を過ごしました。人で溢れかえる陶器まつりが僕の原風景です。
そんな中時代はバブル景気崩壊の失われた20年に入っていくわけですがそれでもそのバブル景気時代の貯金で僕は何一つ不自由なく大学まで卒業させてもらいます。本当に今考えるととんでもない馬鹿息子、何も世間様の事を解っていないボンボンでした。(今もあまり変わっていないかもしれません…)
大学の時はアメフトばっかりやっていてそれさえしていれば何とかなるとぼけ~っと思っていました。…馬鹿野郎です。
大学を卒業してそのままテレビ番組制作会社に就職、東京で暮らす事になるのですが(浮かれてます…)そこは生き馬の目を抜く厳しい世界。けちょんけちょんに今までの甘いボンボン体質を叩き潰されてすぐに挫折。逃げるように信楽に帰っていきました。そうです、まだ実家だったらなんとかなると“甘く”考えていたのです。自分で書いていて本当に救いようが無いなと思います。なんせ原風景が人で溢れかえる陶器まつりですから実家だったらなんとか食っていけると甘く考えていたのです。仕事って厳しいな、東京って辛いなと思って品川駅から新大阪行の新幹線に乗りました。しかし本当の意味で『生きる事は厳しい』と思い知るのはこれからでした。
信楽だったら、実家だったらなんとか食っていけると思って帰ってきたのですが時代は大不景気、今までの陶器なんて全く売れていませんでした。ものづくりの世界は僕が帰って来た時にはすでに本当に良いもの、価値あるもの、独自に魅力あるもの、思想があるものしか売れなくなっていました。時代が完全に変わっていたのです。そんな中なんの覚悟もなく焼物の世界に入ってくる甘ちゃん人間なんかに極端に言うと“席”は無くここから一からの戦いが始まりました。
それからは自分に何が出来るのか、何をしたいのか、奥田大器個人が一体何をお客様に提供出来るのか、本当にそれに見合った価値のあるものを創造出来るのか、それらを問いかける毎日が始まりました。真の意味で実家が産地の窯元であった事に感謝しました。
僕と同世代や若い世代で外から信楽に入ってきて作陶して素晴らしい作品を作っている人は沢山います。何も縁もなく単身飛び込んできて一から自分の世界を作っていく人達です。僕とそんなに歳が変わらない、または若い人達が素晴らしいものづくりをしています。そんな中実家が“偶然”窯元をしていただけで陶器業界に入った僕は本当に悩みました。自分の考えの甘さに。それにこの歳になるまで気付けなかった事に。“仕事”というものに真剣に向き合わなかった事に。そして焦っていきます。何か新しい事、今までの壷八と違う事、今までの信楽焼窯元と違う事、今までの信楽焼には無い何かをしなければならないと考えるようになりました。それは脅迫観念に近いものでした。
しかしその考えでは何も変わらなかったし、誰の共感も得られませんでした。そして考える様になりました。自分は窯元の三代目でルーツは完全に信楽である。その連続性の中に存在しているんだと思う様になってきました。その土台があって存在しているんだという事が解ってきました。一から築く人は自分の人間性や作家性を世に問う義務があると思います。しかし僕の様にルーツが窯元にある人間はその土台を使ってのこれからの発展を皆様にお見せするのが義務ではないのかと。そう思う様になってとても楽になりました。
そして単身信楽に飛び込み一から自分のものづくりの世界を築いている人達の肩書“陶芸家”を自分にも着けようと思いました。自分が陶芸家を名乗るなんて本当に恥ずかしくてできないし、そういった人達に申し訳ないと考えていました。しかし自分には自分の“陶芸”の生き方、道があると気付いたのであえて名乗る事にしました。なぜ純朴かと言うと周りの人達からお前は純朴だと言われるから単純に着けました。純朴だそうです。
これはこのサイトの目的やテーマにも繋がってくる事だとも思いますが僕は都会に住む人達に、その生活に潤いをと届けたいと考えています。この都会という言葉は現代社会という言葉に置き換えて頂いても結構です。世の中、本当に殺伐としていると思います。モノはあふれているがなにか漠然と満たされない、そんな生活に少しでも“潤い”が感じられる様にしたいのです。
僕たちはずっとそういったものを創ってきたと思います。それをもう一度改めて温故知新の精神で表現していきたいと思います。
それが窯元三代目で純朴陶芸家の奥田大器が世間様に対してしていく事だと考えています。
1981年生まれ | |
1999年 | 大阪芸術大学映像学科入学 |
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2003年 | 大阪芸術大学映像学科卒業 |
2003年 | テレビ番組制作会社に入社後すぐ自主退社 |
2004年 | 滋賀県立信楽窯業技術試験場大物ロクロ科入科 |
2005年 | 滋賀県立信楽窯業技術試験場素地釉薬科入科 |
2006年 | 滋賀県立信楽窯業技術試験場研修終了 |
2006年 | (株)壷八入社 |
2012年 | 第80回信楽産業展示展優秀賞受賞 |
2013年 | 第81回信楽産業展示展(信楽から伝えたい事展)京都新聞社賞受賞 |